メモ

http://d.hatena.ne.jp/kawango/20090706/1246835261

現実世界は解答がないことなんてあたりまえだ。ぼくだったら、お金が足らないから、新しいwebサービスは個人でしかやれないという法則?を発見したときは、じゃあ、自分はお金をどっかからもってきて勝負すれば、相当、ライバルは減るよね、とか考える。お金使って、人使って、小回り効かす方法なんていくらでもあるし。


ふたりとも儲からないから個人でやるべきとかいいながら、最終的には大成功を夢見ているし、それができると仮定している。だったら、金使っても回収はできるはずだ。ここでもふたりの結論はロジカルじゃない。解があること前提の思考なのだ。でも、解があるかどうかの証明ができないから、確信がもてずに、賭け金をけちっているだけのはなしなのだ。

世の中をとにかく法則で簡単に説明しようとする努力をするのはいいが、本当にそんなことができることをできるなんて勘違いはしてはいけない。世の中はある一面を切り口にすれば、簡単な理解をすることができることは多いけど、いつでもできるわけではないし、総体としては複雑だ。簡単な理解はかならずそれが成立する条件の限定とセットになる。

本来は人間の能力の個体差はあらゆる意味で大きくない。人間の能力差が大きく見えるとき、それは能力の差を大きく拡大するレバレッジがはたらいているだけだ。


受験戦争の場合、偏差値などの指標で無理矢理人間を序列化する。


本当はたいした差ではない人間に大きな差があるかのような測定方法を与えている。陸上競技しかり、野球、サッカー、しかり、特定の測定方法を提示して、人間の差を拡大表示して競わせる。


本来の人間の能力の差なんて、標準分布のグラフでもながめていれば、だいたい現実に存在できる範囲が限定されていることは容易に想像できるはずだ。


社会における競争においてもそうしたレバレッジが存在する。社会のあちこちにあるヒエラルキー構造がそうだし、資本主義というシステムもまたそうだ。


そうしたレバレッジは、特定の個人に他の人々よりもはるかに大きなパワーを与える。


つまり個人の才能、能力といった幻想は、そんなレバレッジとセットであり、レバレッジは個人ではなく社会に帰属する。個人の才能なんてそれを生かす社会のルールがなければゴミだ。


人間の能力差があらわれるのは社会がそうなるように仕組んでいるだけなのだ。


そして受験戦争では人間の能力的なものに比例したかのような結果を測定するルールをわざわざつくっているが、現実社会での競争はそんな公平な尺度で人間の能力を測定するルールは恣意的にだれかがつくらないかぎりありえない。


20人で1兆円儲かる会社があらわれるという妄想がばからしいのは、ゲームのルールをきめているひととゲームのルールの中でプレイしているひとがいるという基本的な事実を無視しているからだ。


資本主義というゲームのルールをきめているひとたちと関係のないところで、個人の才能(笑)によって、そんな企業が出現するとしたら、それはルールのバグが発見されたにひとしい。


大きなバグは速やかに修正されてあたりまえだ。修正されないためにはルールを決めている側に参加できるかどうかが鍵になる。


また、社会の中でゲームのルールをつくり維持するというのも大変な作業だ。


個人の才能だけで、大きなリターンを得ることを目指すという考え方は、社会のゲームの隠れたルールをうまいこと見つけて利用するということだ。その発想に社会には貢献するという考えかたはない。


個人の生き方としてはありでも、社会的には賞賛されるべきものではない。