メモ

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110314/263603/?P=2

もうひとつ、私たちが他者を必要とするネガティブな理由は、自分が彼らより優っていると感じたいがためである。このような示唆が実に嫌味で不愉快であることは、私も認める。にもかかわらず、欲望について考察した多くの賢人がこれに言及するのをためらわない。ショーペンハウアーによれば、「普通のつきあいで、だれもがもっともめざすのは、相手が自分より劣っていると証明することだ。」

 彼はこうも言っている。「礼儀とは、道徳的欠点にせよ知的欠点にせよ、人のみっともない欠陥をおたがいに見て見ぬふりをし、非難の対象にしないでおこうという暗黙の協定である。」

 哲学者トマス・ホッブスによれば、「心の喜びと楽しみのすべては、他人と自分を有利に比較して、自分側に高い評価をつくりだすことにある。」

 そして神学者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』でこう述べる。私たちはみな、「隣人よりも抜きんでようとし、うぬぼれて他者を軽蔑し、あるいは少なくとも自分より劣ったものとして見下そうとしている。貧しい人間は富んだ者に、平民は貴族に、召使いは主人に、無学な者は学のある者に屈しつつ、しかもだれもが心のなかで自分のほうがすぐれているという認識をはぐくんでいる。ひとりひとりが自分をおだて、心のなかに一種の王国を作り上げているのだ。」

 マーク・トウェインは知的な人間ではなかったが、まわりの人々を見下す欲望について、ショーペンハウアーホッブスカルヴァンと意見を同じくする。「行儀作法とは」と彼は書いた。「各自がどれほど自分のことを考え、どれほど他人のことを考えていないかを隠すことにほかならない。」まさしくショーペンハウアーの礼儀正しさについての考察を彷彿とさせる言葉だ。最後にもうひとり、アンブローズ・ビアスは憎悪をこう定義する憎悪とは「他人のほうが自分より優っている状況に特有の感情である」と。